N言語のそのままで

琴線に触れたことをちょっとだけ考察入れながら書き起こします。生業はシステムエンジニアでボランティアでカウンセラー活動しています。ベースは心理学、現象学です。

鬼滅の刃のヒット理由 家族の時代・弱者の時代

久々に書きたくなりました。

 

今までも何かの作品とか情報を受けて感じたことを文字にしたくて

書いてみていたのですが、今回も同じパターンです。

 

鬼滅の刃

はい、今更読みました。

世間のブームはひと段落しかけているところでしょうか。

 

読んでみて、今の時代、多くの人に必要とされた結果ブームになったんだな、

という感触を抱きました。

 

以下、物語の枠組みについて言及するので

未読の方・アニメ視聴の方はお気を付けください。

 

1.家族の絆

主人公含め、味方側も敵側も親子・きょうだいの絆に対する思いが

各キャラクターで深く描かれているのがまず印象的でした。

(血縁の有無にかかわらず、親子・きょうだい)

 

核家族化、隣人や地域とのつながりの希薄化がどんどん進む社会では

個人の気持ちの中に家族が占める割合が高く、共感を覚えるのだろうなと思います。

 

作品では家族とうまくいかず、物語のカタルシスの中で

絆を取り戻したり、よじれた絆に決着をつける話も多くあります。

歪な家族関係に苦しんできた人にとっては救いや希望の話なのだと思います。

 

家族の比重がとても大きい時代。

家族の絆を原動力として生きる人が数多いて、

そして、家族の絆が呪いになり、呪縛の浄化を

意識的に・無意識に、望む人が数多いて、

鬼滅はヒットしたのだろうと思います。

 

コロナ禍でのステイホームで家にいる時間が増えたこととも重なりますね。

 

2.弱者へのエール

弱かった主人公が仲間と成長していく、王道少年漫画ですが、

炭治郎はどれだけ強くなっても自分の強さに目を向けることがありません。

俺、強くなってる・・・!!、みたいなセリフとは無縁です。

 

妹や仲間を守るに足りない自分の弱さにずっと視線が向いています。

実力がついてきても、強者だとは全く自覚しません。

孫悟空桜木花道は、強さの自覚を持ったり、慢心する場面もありますが、

炭治郎にはそういう瞬間がないのです。

 

賞賛や感謝に対しても、炭治郎はとても謙虚で、自己効力感が低くすら見えます。

 

だからこそ常に必死で、だからこそ強くなれる、そういう主人公であり、

弱さの自覚を持つ者の可能性を伝えてくれる存在です。

 

SNSで多数の他者を目にしてしまい、井の中の蛙になりにくい時代です。

自信や慢心を持つ瞬間が訪れにくい、自分の強さを見出しにくい時代です。

時代に共感される主人公だという点もヒットにつながっていると思います。

 

 

いくつか書評、感想を見ましたが、とてもハマる人と全然な人に二分されるようですね。

憶測ですが、強い自信があったり、利己的・個人主義的な人にはあまり響かず、

自己効力感が持ちきれない人、利他的な人には感動的な作品なのだと思います。

私は後者で、今の社会の生きづらさにささやかに抗う作品だと感じました。

 

思ったまま、感じたまま、また書いていきたいです。

新元号「令和」に寄せて ~字画と響きの占いより

元号、発表されましたね。

万葉集が出典ということで、身分の上下を問わず広く歌を集めた歌集、

つまり元号も気取りすぎないものになりつつあるのだなぁ、と感じました。


占いが好きなので、字画と響きはどうだろう、とついつい考えてしまいます。

画数は13、左脳的な利発さや切れの良さ、才能といったものを意味する吉数です。

響きについては「レ」の印象が強いですね。

「イ」は添えられている感じで、「ワ」は下からゆったり支えている感じでしょうか。

ラ行は離別、個人化のような意味合いがあるので、響きの面にこの点が大きく影響しそうです。

「レ」だと怜悧、のように鋭さや冷たさがよりあるのかな、と思います。

「ワ」がそれを包み込むように、多少は中和してくれているかもしれません。


万葉集の出典ということで、温かみやのどかさの意味も込められているのかもしれませんが、

個人的にはあまりそうはならなさそうかな、、、と思います。


メインストリームにおいては、投資などの金融分野やITの先端技術などに長けた人々が活躍し、

そういったものに疎い人々との格差がより一層広がっていくのかもしれない、と想像します。

格差は金銭的面で特に大きいと思います。

一方で、精神的面においては格差を超えて融和し、同じ場にいることができる可能性もあるように感じます。


また、エリートや天才が輩出される時代でもあると思います。

ただ、サイコパス的な天才も生まれやすい側面も持ち合わせています。


世界の中でどうか、というとガラパゴス的な進化をまだまだ続けていきそうかなという見通しです。

独自言語と島国であることはそれなりにハードルになっているのでしょうね。

先進性のある画数なので、先進技術の分野では大きく進歩していけるかもしれません。

(それが海外にまで普及するか、という点ではあまり見通せないですが)


「レ」と「ワ」の異なる響きの音がどこまで相補的に作用していけるのか、

令和の時代をみんなにとって良いものとするためにはこの「相補性」がキーになりそうかな、と思います。

 

ひとりじゃない。一緒に。あなたの未来を抱きしめて・・・!-感想:HUGっと!プリキュア第48話

HUGっと!のクライマックスのメッセージ、

それは野乃はなちゃんが見つけた存在理由そのものでした。

全ての人に、一緒にいるよと手を取って、力強く勇気付ける、それが応援であると。


私には何も無いと思ってた。

何でプリキュアになれたんだろうって・・・。

けど、違った。

(略)

はぐたんが来てくれて、大勢の人と出会えた。

すごい人ばっかりだなって。

けど、そんな人も迷いながら生きている。

(略)

そうだね、生きるって苦しい。思い通りにならない。

めちょっくなこと、いっぱいある。

でも、だから、私は応援したい。

フレ、フレ、その気持ち。一人じゃないって抱きしめたい・・・!

(HUGっと!プリキュア第48話より)


はなちゃんはいじめ、転校と苦しい経験をして、それでも

応援するということを自分の価値として見出しています。

ただの天真爛漫ではない、弱さを知っているからこそ、真実味が胸に迫ってくるのです。


生きるって苦しい、とはなちゃんは確かに言い切っています。

辛いこと、挫折、人生の敗北に等しいこと、それらは決してなくならない。

でも、それでも、未来を信じ、未来を抱きしめて生きていくのだと。

 


全ての人、そこには再起する人ももちろん含まれます。

一筋の光のような未来を信じると口にするかつての敵幹部たち、

迷い、夢破れた大人たちも彼女は確かに応援してくれるのです。

世界を永遠の中に閉じ込めようとした元凶たるジョージ・クライに対してすら彼の未来を願うのです。

そこに美しい朝日が昇ってくることも必ずあるはずだ、と。

 


今このHUGっと!プリキュアを見ている子供たちもきっと

つらい状況に追い込まれたり、自分をみじめに感じることがきっとあるでしょう。


そんなときも、心の中にいるキュアエールたち、HUGっと!プリキュアが応援してくれるのです。

フレ、フレ、きっと一人じゃない。希望を、未来を信じて抱きしめて・・!と。

エンディングの歌詞でも歌われていますよね、そばにいるよ、と。

 


経済・技術の激しい変化によって、先行きの不透明さを増す社会の中へこどもたちは飛び立っていきます。

先が分からないから不安に駆られるでしょう。

HUGっとプリキュアはその不安の中で生きていく彼ら彼女らに対するエールなのです。

先が見えないからこそ、誰かと手を取り合って、未来を信じて生きていってほしいという。


このエールが大人になってからも心の中でひとりひとりを支えていくはずです。

ひとりひとりを、あなたを、野乃はなちゃんは応援し続けてくれているのです。

弱者の周辺にいるあなたも、尊重の対象なんだよ-感想:HUGっと!プリキュア第35話

HUGっと!はいいですね、本当に。

めちゃくちゃ真面目に正面から問題に向き合ってるのが好きです。


さて、35話に出てきたあやちゃん、現代っぽいキャラ造形だな、と思いました。

お母さんに気を遣って自分を抑えこんでいるところ、

無理が生じていてもいい子でいようとするところ。

『迷惑をかけてはいけない』と言われて育つ今時の子だな、と感じます。

迷惑の度合いは程度問題だし、その後ちゃんと気持ちよくフォローできれば

むしろ人間関係が深まるきっかけになるのにな・・・といつも私は思います。

 


もう1つ別観点から。

35話はタイトルに「命の輝き」とあるので、生まれてくる子にクローズアップするのかと思いきや、

赤ちゃんが生まれることによってお姉ちゃんになる子の成長の輝きを描いた回でした。


当人だけでなく兄弟、その周辺に焦点をあわせるという取り組みは

全ての人を尊重し、大切な一人として扱う、という人間尊重の観点からも語れるかな、と思います。

一番の弱者(この回では生まれてくる赤ちゃんとそのお母さん)だけでなく、

弱者の周辺で見落とされがちな人(赤ちゃんのきょうだい)も、支援やケアの対象になりうるのだと。

いのちが等しく大切であるという思いをその背景に感じました。


プリキュアを見ているご家庭の中にもきっとこれから赤ちゃんが生まれる同じ状況の方が少なくないと思います。

お姉ちゃんやお兄ちゃんになる子も、もちろんお父さんもお母さんも、みんな大切な一人であり

家族で、地域で、社会で、元気かな?と気にかけられる一人であってほしいと願います。

 


きょうだいの話でいくと、先日のニュースで『きょうだいさんのための本』が紹介されていました。www.nhk.or.jp


病気や障がいのあるのきょうだいをもつ健康・健常な子が、

知らず知らずのうちにさみしい思いをしているかもしれない・・・

そんなきょうだいさんに寄り添った本です。

提供しておられるのはこちらのNPOのホームページです。

 きょうだいさんのための本-しぶたねのたね


このきょうだいさんの本の根底にある理念、

ひとりひとりが大切な一人なのだということ、

もっと社会に浸透していってほしいなと思っています。

転調の違和感の隙間で重く響く感情 ―感想:SONGSスペシャル 宇多田ヒカル

もうデビュー20年になるんですね、宇多田さんは。


10代の息詰まる苦しさ、20代のもがきと不安を

彼女の歌に乗りながら生きてきた同世代なので、

ああ、もうそんなになったのか、という感じです。


番組内で又吉さんと宇多田ヒカルの「言葉」について対談していました。

対談で取り上げられた点の他に、私は漢字の熟語やカタカナの使い方に妙を感じます。

 

 『花束を君に』の薄化粧

 『桜流し』の産声

 『光』の運命の仮面

 『Flavor Of Life』の中間地点

 『Be My Last』のバラバラ・コラージュ

 『Prisoner Of Love』のブルース

 

一語取り出しただけで、曲のイメージやテーマが伝わるような

強烈な、厳選された言葉だな、と改めて感じ入ります。


ひらがなベースのやわらかい口語表現の中に混ぜ込まれた漢語・カタカナは

響きの違いや音の硬さを持ち、凝縮された意味合いで重たくなり、鈍い鏃のように私たちのもとに届きます。

簡単に引き抜けない圧力があり、傷口にしみる訳を考えさせられる時間が生じる・・・

そういう曲が数多くあるように思います。私にも、刺さったままの曲がいくつもあります。


漢字の熟語やカタカナにおける感情の質量と表現の正確さは

日本語について小説など、文字で触れてきたという点よるものなのかもしれませんね。


30代、母となり、でも母である前に存在する「自分」を考え続ける、

そういう在り方をされているように感じ、私はこの先も

彼女の歌を生きる糸口にするだろうな、と思うこの頃です。

震えを隠しながら立ち上がり、体現していく。キュアエールは「元気」のプリキュアなのだと。-感想:HUGっと!プリキュア第23話

もはやプリキュアのことしか書いていない・・・

と思ってはいるんですが、23話はエンディングで泣かされてしまいました。

 


転校前のはなちゃんは人をかばっていじめられており、

決意の再起として新しい学校で「元気」に振舞っていたのですよね。

第1話の登校前の自分に何かを言い聞かせながら髪を切る描写は

いじめられていたことの伏線だったわけです。


ひざを抱えてベッドにうずくまっていた彼女が

「元気」のプリキュアとして、守るべきもののために戦う。

プリキュアチームの盛り上げ役として明るく振舞う。仲間も鼓舞する。


「元気」は彼女が一度失ってしまったものであり、

再びそれを信条としながら「元気」を取り戻し、体現してきたのかな、などと見ていて想像しました。


本編に続くエンディングを見てその姿勢のひたむきさ、がむしゃらさがより伝わってきました。

新エンディング曲のタイトルは「HUGっと!YELL FOR YOU」。

みんなへのエールであるとともに、はなちゃん自身への応援歌でもあると思います。


さあ行こう、信じる、あきらめない。

要素を取り出してしまうとありきたりになってしまうのですが、

ひたすらな前向きさの裏に、震えながら自分を励まして走り続ける姿が垣間見える曲であり、

裏側にある弱さが、ひざを抱えたはなちゃんの姿と重なって迫ってきました。


そうやって必死に走る人を、私は祈るような気持ちで愛おしく思います。

ああどうか、報われてほしい、健やかであってほしい、と。

 


プリキュアを見ている小さな子供たちは、障壁だらけの社会に出てゆき、打ちのめされることもあるでしょう。

そんなときに野乃はなちゃんを思い出してほしいのです。

彼女の立ち上がる姿を。

その姿をアニメ作品で表現した大人たちの祈りを。

 


HUGっと!には祈ってばかりです。本当に。

 

2018/7/19 追記

エンディングがいい曲すぎて空で歌えるようになってしまいました。

歌いだしが、花が咲く、なんですよね・・・

はなちゃんの人生の花を咲かせるという意味合いもあるんだろうなーと思います。

 

泣けるポイント、私も同じです。

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逡巡を乗り越えた受容的態度 ~優しさと正直さの狭間で~ -感想:クロ現+ 2018年7月3日放送回『“息子介護”の希望をさがして ~50代ディレクターの介護記録~』

昨日のクロ現+の息子介護の回、ディレクター自身が当事者とのことで

リアリティがあり、思いが詰まった濃密な放送内容でした。

 

介護者の希望になる例として挙げられていた中でも、特に鈴木さんの言動に心揺さぶられました。

鈴木さんが自分が作ったご飯をお母さんに出し、
その食卓でお母さんが

「私が作った。だから美味しい。あんたも何でも食べるから」


数秒たってから鈴木さんは

「おふくろのポテトサラダうまいもんな」


(※映像を再確認できていないので、発言内容の細部は不正確な可能性があります)


悩みながら介護しており、ご飯も自分が頑張って作ったのに、母はそのことをわからず、自分が作ったと思っている・・・。

苦労が認められていない、頑張りが承認されない状況下、数秒間の逡巡があります。

 

そのときの鈴木さんの複雑な表情。承認されないことへの正直な反発とお母さんの世界を尊重してあげたいという優しさがせめぎあっているのだろうと思います。

その表情を見ていて私は苦しいような泣きたいような胸の詰まりを感じました。

 

「おふくろのポテトサラダうまいもんな。」という言葉に至ったときの、やわらかい、でもどこかあきらめたような影も垣間見える鈴木さんの顔・・。

逡巡を乗り越えて、お母さんの世界の方へ乗ったんだ、という感嘆が押し寄せてきました。


日常の生活の中で、受容的に生きているということの凄みや重さ。

こうして生きている人が現実にいるんだ、と思うと

救われるような気持ちになると同時に、もっと勉強しないと、とも思います。

 

もう1点。
鈴木さんはお母さんの世界を否定せず尊重することで、お母さんを受容しました。

同様に、鈴木さんの世界も誰かに尊重され、

人間として受容されていてほしい、と強く望みます。

全ての人の世界の見方、世界の生き方は唯一無二であり、全てが尊重されていてほしい、

そう望みます。

 

受容する側にだけ居続けるのは、とてもとてもしんどいはずです。

人間的に生きていくには受け入れ合うことが必要なはずです。

介護者を援助し、人間として支える人たちがいるから、

介護される人への受容的態度がかなうのだと私は思います。


今回の件を書いていて、『「痴呆老人」は何を見ているか』大井玄著という書籍を思い出しました。

再読して、現象学的・哲学的観点からまた何か想起することがあれば追記したいと思います。