N言語のそのままで

琴線に触れたことをちょっとだけ考察入れながら書き起こします。生業はシステムエンジニアでボランティアでカウンセラー活動しています。ベースは心理学、現象学です。

愛は見捨てない、誰一人。-HUGっと!プリキュア第22話より

パップルさんの苦しい恋が終わる、というとても子供向けとは思えない話でした。

映画の宣伝というミッションがありてんこもりの回でしたが、
彼女の苦しみに愛を持ってぶつかっていくというキモ部分がしっかり描かれていました。

 


私にはもう何もない 何もかもおしまいなんだ
それでも、それでも未来はあるのです

私には嘘というものがよくわかりません

ただ分かるのは、あなたはそんなに苦しむほどに人を愛したということです
そこに嘘はないはずです

(HUGっと!プリキュア第22話より)


まだ慈愛と呼ぶには未熟な、けれど精一杯の愛情にキュンとします。

真正面からがっぷり四つに組む、マッチョな愛でもあります。(特にマシェリの方)

頑張りに頑張って何とかしてあげたいと奮闘する、発展途上の愛の形だなと思います。


あなたのことは好きではありません
いつもみんなにひどいことばかり

でもあなただって何でもできる、何でもなれる
何もかも失ったって それでも未来で奇跡を起こすのです

(HUGっと!プリキュア第22話より)


もうひとつ、マシェリにとってはパップルさんは
親友や周囲の人を苦しめて来た相手です。

好きではない、でも、それでも、救おうとする。
誰であろうと、苦しむ人や悲しむ人を救い出したい、何とかしたい。

誰であろうと見捨てない、誰一人として見捨てない、愛が尊い理由がここに描かれているように思います。

 


愛は人を育て、救い、生きるための源泉となるものです。

一方で直ぐに効果が見えるものでもありません。遅効性でありそして計測が難しいものです。

資本主義社会の中で、費用対効果が見えにくい愛はないがしろにされがちです。

だからこそ、そんな社会の中に出ていく子供たちにこそ、愛の価値と意味を伝えたいと希求するのです。

表象ではなく人格を見てほしい -『「女性エンジニア少ない問題」を解決するために・・・』について

私もひとりの女性エンジニアであり、

仕事をする中で色々と考えたり、感じることがあります。

差別が空気として蔓延していると、差別だと思わない人の方が多いもの。

ジェンダー固定化の観点から、批判的に書きます。

(以下、論評になるので語調変えます。)

 

 

元ネタ

「女性エンジニア少ない問題」を解決するために、機械学習で男性エンジニアを女性に変換する - ログミーTech(テック)


擁護的

Y社のエンジニア炎上について思ったこと -「女性エンジニア少ない問題


批判的

Latest topics > 女性エンジニア少ない問題を解決する話、の何が問題なのか - outsider reflex


エンジニア全員が抱えているもっとも重要な課題っていうのは、言うまでもないと思うんですが「女性エンジニアが少ない」。
(中略)
そして、これによって生じる問題は、男性エンジニアにとっては、「いいところを見せたい」というやる気が出ない。
そして、女性エンジニアにとっては、女子トークができない。これは非常に重要な課題だと思います。

(元ネタサイトより引用)

 
女性エンジニアが少なく、増やすべきなのがなぜなのか、という問題提起をするための根本理解のところが問題。ジェンダーの現代的文脈への理解が示されず、無邪気に表面的にジェンダーを固定化する方向から語っている。

 

女性エンジニアを増やすべきなのは、今まで男性中心であった世の中を女性も同様に地位や利権を得られるようにして行くため。明文化された規定は男女差別を撤廃しているが、不文律は人の意識が変わらない限り変わらない。

そして今回、エリートと呼んで差し支えない人から不文律を固定化する方向の意識が見て取れたので、怒っている人が多いのだと思う。 

 

男性エンジニアが女性エンジニアをモチベートのツールとして利用している

対して女性は女子トークができない、というのはあまりにも浅いと思う。

男性が女性を利用する、という規範化されたジェンダーの文脈そのままに、それを意識せずに語っている。おそらく、女性が社会で不利益を被っており、それが歴史的・構造的に作られてきた意識・文化によるものだ、ということを彼は理解していない。

少なくとも身内や周囲の人から実態を見聞きするなど実感を伴った問題意識は無いはずだ。今後の社会を作っていく先端人材の基礎教養として、ジェンダーを学んでほしい。

 

ただ、女性エンジニアを1から育成するっていうのは、非常にコストが大きいんですね。

(元ネタサイトより引用)

1から育成しないといけないのは、女性は学びのレベルが低いから、ととられかねない文脈。ここは書き方の問題であるようにも思う。

 

せっかく見た目がかわいくなったんですが、やっぱりそっから野太い声が出てくると悲しいと。

(元ネタサイトより引用)

一番問題なのはここ。中でも「やっぱり」がひっかかる。

 

解釈すると、

そういう風に可愛さを求めちゃうのはよくないのかな、とも思うけど、「やっぱり」可愛くないと悲しいんだよね。という「やっぱり」であり、本音であることを意味する言葉である。

女性は見た目も声も可愛くあってほしい、なぜなら僕のやる気が出るから。という本音である。

 

あの人が好きだから一緒に仕事するとやる気がでるんだよね、であれば、個人の人格に対しての反応であり、こうも批判されることはない。

可愛い女性と仕事するとやる気がでるんだよね、は女性をひとくくりに、可愛いツールとして表象を利用している態度になる。見た目や声で判断するというのは、人格を軽視した差別的態度につながる。

 

女性の地位向上がはかられる時代背景からすると、女性の人格を軽視している発言、ということになる。発言者は技術では先端に立つ者かもしれないが、社会倫理的素養が遅れていると言わざるをえず、そのギャップもここまで炎上した理由の一つかもしれない。

 

また、「やっぱり」のところで、女性に可愛いさを求めるのは倫理的によくないのかも、というフィルターが若干かかるが、本音が押し出てしまう、というところに問題の深さを感じる。
(こういう本音を持つ人は多数存在すると思われ、個人攻撃ではなく一般論として。こういうの、本当によくある。)

本音の部分で女性をそうみている、というのは文化や教育の問題であり、本人がどうこうできない可能性もある。こういう人は男性女性問わずかなりの割合で存在して、社会人になってから意識を変えようとしても中々変わらないのかもしれない。


少しずれるが、大人になってから自分を変えられるのはそれまでに培ってきた学ぶ力如何だと私は思っている。学び取り、内在化させ、自己批判することで自分を変えられる。
元ネタの発言者も、彼の所属する会社の広報部や上層部も学ぶ力を高いレベルで培ってきた人であると思っており、意識が変わることがあればこの記事のその後を数年後にまた発信してほしいと願う。

 

 

軽いノリでいじっただけ、でもそれが連続的に特定の対象に行われれば、いじめになる。

多くの人が、女性の人格軽視を軽いノリで行っているのも、それを受ける側が連続的に表象としての女性として扱われ続けて、人格軽視に至ればそれは男女差別でり人権侵害である。

 

また、いじめは、見ているだけも、いじめに加担していることになる。
女性を表象、あるいはファッションとして見る態度についても、無意識であっても非倫理的としてネットに晒される。

 

学校でいじめがあったら、ホームルームでの話し合いが持たれ、倫理観の摺り合わせがはかられる。
大人にはそれがない。アンテナを広く張って自発的に学ぶしかないのだ。

 

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お読みいただいた方、ありがとうございます。批判側の考えについて少しでも理解が深まれば幸いです。

地雷を踏まないための知識として出回ってしまいがちですが、人間尊重の一つの形としてのジェンダーを考える人が増えてほしいと願っています。

より多くの人が、可能な限りすべての人が、心豊かに生き合える社会になる一歩として本件が寄与する道もあるはずです。

愛したい愛されたい、願望系の愛のプリキュア -HUGっと!プリキュア第20話より

プリキュアばかり書くつもりはないのですが・・・またもHUGプリです。

プリキュア追加回なのですが、変身の直前のせりふにぐっときてしまいました。


(プリハートを手にして、えみるとルールーが見つめ合って)
あなたを愛し、私を愛する!
(変身シーンへ)

HUGっと!プリキュア 第20話より)


ここだけ抜き出してしまうとなんのことやら分かりにくいのですが・・
女の子らしさを強要されて育ってきたえみると、アンドロイドのルールー、
自己肯定感をあまり持てないでいた二人がお互いを支えとして、お互いを承認し合い、自分を愛することができるようになる、というせりふです。


自己肯定感は幼少期に愛着を形成した大人から愛を与え続けられることで醸成されるものだと思います。存在そのものを受け入れてもらい、役割としての自分ではなく存在そのものを承認してもらう。
自己肯定感は愛によって作りあげられるものであり、生きていく勇気の源です。

 

役割的な承認が強いであろう家庭で育ったえみると、そもそも役割でしか承認がなかったルールー。
生きていくための基盤が弱い二人が、お互いが弱い部分を持っていることを見つけあい、認め合い、新たに承認しあうことで、自分を愛する=自己肯定を補い合う。


弱い部分を持つ人が、いじけずに、精一杯頑張っていこうとする、
そしてお互いの存在によってそれが成り立つ、という形が描かれており、
環境によって作られた弱さに切なさを感じると共に、人が人と共に生き合う存在であることの喜びもこのシーンから感じました。

 

お互いの存在で弱さを補い合い、次のステージへ向かっていく。
レジリエンスのひとつの表れ方かな、とも思います。

 


そして、愛に恵まれなかった二人が、愛のプリキュアになる・・・
お互いを愛することで、自分を愛することができるようになった、愛に対する願望系のプリキュアだなと思います。
(変身するってそういうことだ、とも言えますが)

愛され、愛したい、それを体現するものでありたい。
願いが身をもった真摯なもので、キリキリと痛むような苦しさもはらんでいるように感じます。見ていて胸がグッと絞られるような感じがして・・・ただただ幸せなだけの変身ではないのですよね。


今は二人でいるから変身できるという段階ですが、
補い合って得たものを持って、それぞれが別個となった時でも自由な世界で強く生きていくことができる、という未来が描かれるといいな、と思っています。

今の二人は共依存にも近い関係なので、
健全に、発展的に、一人の人間として自立していく姿を子供たちに見せてあげてほしいなと思いました。

 


同じ事を言葉を変えて書いてみていますが、
それだけ感動したことの証左であり、ぴたっとくる表現を探す実験でもあるのでご容赦ください。

次は前から考えている本のことで書きたいです。
次週もプリキュアが面白かったらどうしよう。

自己肯定と相互尊重 -HUGっと!プリキュア第19話より

HUGっと!プリキュアの第19話がすごかったのでブログはじめました。

 

かなり攻めたジェンダーの話が主題だったと思うのですが、
それを基礎付ける価値観として自己肯定と相互尊重をはっきりと描いているのに心打たれました。

「そうか、君も苦しいのか。(オシマイダーをハグして)
ごめんね、けどぼくは君のために僕をかえることはできない。
誰に何を言われたってかまわない。僕の人生は僕のものだ。
僕は僕の心を大切にする。だってこれが僕、若宮アンリだから。
君も君の心をもっと、愛して。」
HUGっと!プリキュア 第19話より)

 

アサーションなり、ゲシュタルト療法なり、NLPもそうだと思うのですが
現代のカウンセリングやコミュニケーション理論の多くに共通する
自己肯定と相互尊重がほぼそのまま言明されています。

 

さらにカウンセリング的だな、と思うのが「ごめんね」と断っているところ。

あなたの気持ちを思いやっているよ、その上で、僕は僕として振舞います、という
気持ちの近さと、健全さを保つための境界の両方を併せ持つ態度。

あなたのことを思っているけれど、僕とあなたは違う存在であり、それぞれに生きていく。
僕が僕の心を大切にしているように、あなたも自分の心を大切にしてほしい。
あなたが大切にするあなたの心を僕は大切に思う。

自分の境界からできることややっていいことの限界を知りながらも、
あなたに対して祈っている、人間の切なさがこの「ごめんね」にあらわされていると思います。


私は、自己肯定できるから相互尊重もできるようになる、という観点で書いてます。
自己肯定の点については愛読しているプリキュアの数字ブログさんもふれられています。

prehyou2015.hatenablog.com


作品自体、自己肯定をテーマにしているのは本当にそう思います。

自己肯定とキャリア(HUGプリでは狭義のキャリアになりますが)も直結するところなので
また考えて、文字に起こしてみたいな、と思います。


脚本を書いた方は心理学方面の知識があるのかもしれないですね。
無いのだとしたら、逆にすごく嬉しいです。
生活から導き出されたものと、心理学の成果が意図せず同じで、
それを子供たちに伝えたいと願っているなんて・・・本当に嬉しさがこみ上げてきます。

欲を言うなら、アンリくんが自己肯定と相互尊重を獲得するまでのことが垣間見えると納得感がアップするかな、なんて。
30分の尺でこれ以上を望むのはいいすぎですけどね。


見ている子供たちの心に、大人たちの祈りが少しでも届いているといいな、と願わずにはいられません。