N言語のそのままで

琴線に触れたことをちょっとだけ考察入れながら書き起こします。生業はシステムエンジニアでボランティアでカウンセラー活動しています。ベースは心理学、現象学です。

逡巡を乗り越えた受容的態度 ~優しさと正直さの狭間で~ -感想:クロ現+ 2018年7月3日放送回『“息子介護”の希望をさがして ~50代ディレクターの介護記録~』

昨日のクロ現+の息子介護の回、ディレクター自身が当事者とのことで

リアリティがあり、思いが詰まった濃密な放送内容でした。

 

介護者の希望になる例として挙げられていた中でも、特に鈴木さんの言動に心揺さぶられました。

鈴木さんが自分が作ったご飯をお母さんに出し、
その食卓でお母さんが

「私が作った。だから美味しい。あんたも何でも食べるから」


数秒たってから鈴木さんは

「おふくろのポテトサラダうまいもんな」


(※映像を再確認できていないので、発言内容の細部は不正確な可能性があります)


悩みながら介護しており、ご飯も自分が頑張って作ったのに、母はそのことをわからず、自分が作ったと思っている・・・。

苦労が認められていない、頑張りが承認されない状況下、数秒間の逡巡があります。

 

そのときの鈴木さんの複雑な表情。承認されないことへの正直な反発とお母さんの世界を尊重してあげたいという優しさがせめぎあっているのだろうと思います。

その表情を見ていて私は苦しいような泣きたいような胸の詰まりを感じました。

 

「おふくろのポテトサラダうまいもんな。」という言葉に至ったときの、やわらかい、でもどこかあきらめたような影も垣間見える鈴木さんの顔・・。

逡巡を乗り越えて、お母さんの世界の方へ乗ったんだ、という感嘆が押し寄せてきました。


日常の生活の中で、受容的に生きているということの凄みや重さ。

こうして生きている人が現実にいるんだ、と思うと

救われるような気持ちになると同時に、もっと勉強しないと、とも思います。

 

もう1点。
鈴木さんはお母さんの世界を否定せず尊重することで、お母さんを受容しました。

同様に、鈴木さんの世界も誰かに尊重され、

人間として受容されていてほしい、と強く望みます。

全ての人の世界の見方、世界の生き方は唯一無二であり、全てが尊重されていてほしい、

そう望みます。

 

受容する側にだけ居続けるのは、とてもとてもしんどいはずです。

人間的に生きていくには受け入れ合うことが必要なはずです。

介護者を援助し、人間として支える人たちがいるから、

介護される人への受容的態度がかなうのだと私は思います。


今回の件を書いていて、『「痴呆老人」は何を見ているか』大井玄著という書籍を思い出しました。

再読して、現象学的・哲学的観点からまた何か想起することがあれば追記したいと思います。